655年(永徽6年)6月、王皇后とその母柳氏は祈祷師に厭勝の術をさせ、武照を呪い殺そうとした。この企みは高宗の逆鱗に触れ、柳氏を宮中から追放しただけでなく、それまで昭儀(後宮の位の一つ)だった武照を新たに設けた宸妃(皇后に次ぐ位)にさせようとしたが、宰相韓瑗と來濟の反対で実現はしなかった。
やがて中書舍人李義府などの人間が高宗が皇后を廃して武照を擁立しようとしているとの知らせを入手し、許敬宗、崔義玄、袁公瑜等の大臣が結託して立て続けに高宗に武照を皇后にするよう上奏文を送った。上奏文を読んだ高宗は多くの者が支持していると思い込み、再びこの思いを起こし始めた。
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その後高宗は王皇后を廃し武照を皇后に立てる事について重臣に下問した。この時の朝廷の主な人間は太宗の皇后の兄である長孫無忌、太宗に信任されて常に直言をしていた宰相褚遂良(ちょすいりょう。褚は衣偏に者)、高祖李淵と同じ北周八柱国出身の于志寧、太宗の下で突厥討伐などに戦功を挙げた李勣の4人である。長孫無忌と褚遂良は反対し、于志寧は賛成も反対も言わず、李勣はこの会議には欠席していた。その後高宗が李勣に下問したところ立后が内廷(皇帝の私事)の件であり、外廷(官僚)が容喙すべき問題でないと返答し立后の方針が決定された。後世の史家はこの李勣の返答が武則天の専横を生んだものとして非難している。
10月13日、高宗は李勣などの重臣の支持の下で「“陰謀下毒”の罪名により王皇后と蕭淑妃を廃し庶民とし投獄する。