2009年06月25日

マーシャルプランへの不参加をソ連が表明して

マーシャルプランへの不参加をソ連が表明して、更に参加を希望していたチェコスロバキアなどの東欧諸国に圧力をかけて不参加を強要させた。9月には東欧や仏伊の共産党によりコミンフォルムを結成し、西側に対抗する姿勢をとった。これによりヨーロッパの分裂が決定的になった。

ヤルタ体制の中で東欧諸国は否応なく、チャーチルが名づけたところの「鉄のカーテン」の向こう側である共産主義体制に組み込まれることとなり、ドイツという共通の敵を失ったソビエトとアメリカは、その同盟国を巻き込む形でその後1980年代の終わりまで半世紀近く冷戦という対立抗争を繰り広げた。また、フランスやイギリス、ソビエトなどの主要連合国はアメリカに倣い核兵器の開発・製造を急ぐこととなり、後に成立した中華人民共和国やインド、パキスタンなどがこれに続いた。
二度の世界大戦の原因の一つとして挙げられるのが、ザールラント(ドイツ領、戦間期は、自由市)及びアルザス・ロレーヌ[27]で産出される石炭及び鉄鉱石をめぐっての争いであった。そのため、石炭、鉄鉱石を共同管理することによって、戦争を回避する目的で、1951年に、欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が結成された。
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1958年にベネルクス(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)、イタリア、西ドイツ、フランスが欧州経済共同体 (ECC) 、欧州原子力共同体 (EURATOM) が結成され、1967年に拡大、発展する形で、EEC、ECSC、EURATOMと欧州共同体 (EC) に統合した。
ECは、1973年に、デンマーク、イギリス、アイルランド、1981年に、ギリシャ、1986年には、スペインとポルトガルが加盟し、12か国体制へ発展した。
ECは、1993年11月1日のマーストリヒト条約欧州連合(EU)に発展した。2007年1月1日には、旧東欧圏であるルーマニアとブルガリアが加盟し、27か国体制へと発展を遂げた(詳細は、欧州連合を参照のこと)。
世界を戦争の渦に巻き込んだアドルフ・ヒトラーは敗戦直前に自殺。残虐行為を実行した親衛隊の長官ハインリッヒ・ヒムラー、ナチスイデオロギーの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスも同じく自殺し、残されたヘルマン・ゲーリングなどナチス首脳部の一部は、連合軍による国際軍事裁判(ニュルンベルク裁判)によって裁かれ、ゲーリング、リッペントロープ外相、ヴィルヘルム・カイテル元帥ら12名に絞首刑の判決が下された。

その他にも、ヒトラーお抱えの映画監督と言われたレニ・リーフェンシュタールや、ナチス占領下のフランスで、ナチス高官の愛人の庇護のもと自堕落な生活を送っていたココ・シャネルなど、国籍を問わず、ドイツの犯罪行為に加担したと考えられる芸術家や実業家なども非ナチ化裁判で罪を問われ、活動を禁止された者が数多くいた。

2009年06月10日

公共の福祉を根拠としない場合でも

公共の福祉を根拠としない場合でも、憲法が特に認めた場合には人権は制限できる、とされる。
テニス
セキュリティ
花火
仏教絵画
東北地方
壁画
日用品
セパタクロー
印刷
水球
アスペルガー症候群
学習塾
ベリーダンス
北陸地方
水彩画
恐竜
水墨画
両生類
ジオキャッシング
アニマルセラピー

憲法に規定がある場合(刑罰・財産収用・租税賦課/徴収・憲法尊重擁護義務)
公共の福祉を根拠とするのに問題があるが、憲法の明文もない事例として、在監関係・公務員関係・未成年者の人権制限がある。これらについては、「憲法秩序の構成要素」であるから という論拠と、未成年者の保護・育成のため憲法が認めている という論拠を主張する説が有力である。
憲法秩序の構成要素とされる場合(在監関係・公務員関係)
未成年者の保護・育成のための措置(未成年者の人権制限)
これらの場合も制限目的の合理性と制限手段の合理性が必要とされ、これらの合理性がない立法は違憲と考えることができる。
国家からの自由という理念から、日本国憲法の重要な原則である基本的人権の尊重が導かれる。前文では「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し(後略)」と規定され、11条では「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。」と宣言されている。また、「表現の自由」(21条1項)など第3章の詳細な人権規定、権力分立による権力集中の防止(これによる権利の濫用の防止)、裁判所の違憲立法審査権(民主的意思決定による基本的人権の侵害を防止・81条)、憲法の最高法規性(第10章)など、ほとんどすべての規定が自由主義の理念のあらわれといえる。


平和主義(戦争放棄)
平和主義は、自由主義と民主主義という二つの重要な理念とともに、日本国憲法の理念を構成する。平和主義は、平和に高い価値をおき、その維持と擁護に最大の努力を払うことをいう。平たくいえば、「平和を大切にすること」である。

平和主義の内容は、

人権 平和的生存権の権利性 - ただし、判例及び有力説は、平和的生存権の権利性を否定する。
統治
戦争の放棄
戦力の不保持
交戦権の否認
国務大臣の文民性
とされる。

2009年06月06日

明治時代になって株仲間のような規制がなくなると

明治時代になって株仲間のような規制がなくなると新規に陶器生産に参入する家が増えていく。そして、明治の常滑では近代土管という新たな主力製品があり、その生産は従来の窯屋だけでは供給しきれないほど大量の需要があった。土管は英語のEARTHENWARE PIPEの訳語とされる。常滑では江戸末期の赤物に土樋があり、文久年間に鯉江方寿は美濃高須侯の江戸屋敷で上水道用として用いる真焼土樋を作って納めたという記録がある。しかし、近代土管の生産は土樋とは異なる規格化された製品で明治5年、横浜の新埋立地の下水工事に伴う注文が鯉江方寿のもとにもたらされたことに始まる。その設計はお雇い外国人のリチャード・ブラントンであった。はじめ瓦の材質で作られた土管は強度に難があるということで、常滑の真焼甕のように作ることを求められた。この注文は従来の常滑焼の技術だけでは充分に対応できず、鯉江家に出入りしていた大工が発案した木型を用いて作る方法でブラントンの求めた規格通りの製品を納めることができたとされる。その後、鉄道網が整備されると灌漑用水路が線路で分断されるため暗渠の水路を強固な素材で通す必要があり、分厚くて硬く焼き締まった特厚の土管が大量に求められた。また、都市での疫病が大きな問題となるに従い上下水道の分離が求められ、土管の需要湯は増大する一方であった。こうした状況に鯉江家だけでは生産が追いつかず、鯉江家はその技術を解放して常滑をあげて土管生産に対応するようになっていく。

タイルを中心とする建築陶器の生産は明治末年ころから開始されるが、大正期、フランク・ロイド・ライトの設計になる帝国ホテルに採用されたスクラッチタイルやテラコッタなどを常滑で生産して以降、急速にその生産量が増加していく。帝国ホテルの開館の祝いが催されていた大正12年9月1日、関東大震災が発生したのであった。それまでの近代建築が多く煉瓦積みであったのに対し、帝国ホテルはコンクリートを用いており、震災の影響が見た目にはそれほど大きくなかった。そして、その後の鉄筋コンクリート建築が普及するとともに建築陶器の需要が急速に増大していくことになる。

幕末から常滑焼業界のリーダー的位置に付いた鯉江方寿は明治期に近代土管の量産を軌道に乗せ、さらに輸出用陶磁器の生産にも取り組んだ。しかし、鯉江窯の試作品は高級品志向が強く、本格的に輸出されるようになったのは朱泥龍巻(しゅでいりゅうまき)と総称される製品群であった。明治10年代に試作され20〜30年代に本格的に輸出された朱泥龍巻は北米を主要な市場としていた。朱泥土を用い壺や投入、花瓶などを作り、その表面に石膏型で成型した龍を中心とした薄板状の文様を貼り付けてレリーフ状の装飾としたものが朱泥龍巻であるが、常滑から神戸に送られ、そこでさらに漆や金箔などを用いた加工が施されていた。明治末になると朱泥龍巻は急速に商品価値を失い、大正期には新たに素焼きの生地に漆を塗り、様々な装飾を加えた陶漆器(とうしっき)が輸出品として生産されるようになる。
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鯉江方寿の業績として、明治11年に清朝末期の文人で宜興窯の茶器製法を知っていた金士恒という人物を招聘し、常滑の陶工に、その技法を伝習させたというものがある。明治期の常滑の煎茶器生産は、多くの名工によって担われていたが、産業として量産されるような段階には至っていない。それは、大正・昭和戦前期においても同様で植木鉢や火鉢の方が主要な製品であった。

近代の常滑焼は、初め連房式登窯と大窯で焼かれていたが、明治33年に結成された常滑陶器同業組合が明治34年度の事業として取り組んだ倒焔式の石炭窯の試験に成功したことで、石炭窯が急速に普及し、大正・昭和の主役となる。しかし、町中を黒煙で覆った石炭窯も昭和45年「改正大気汚染防止法」のころから重油へと燃料転換が計られ、さらにガス窯や電気窯の普及、そして、量産品はトンネル窯によって焼成されるようになり、その役割を終えていった。

2009年04月23日

大化の改新

大化の改新(たいかのかいしん)は飛鳥時代の孝徳天皇2年春正月甲子朔(西暦646年)に発布された改新の詔(かいしんのみことのり)に基づく政治的改革。中大兄皇子(後の天智天皇)らが蘇我入鹿を暗殺し蘇我氏本宗家を滅ぼした乙巳の変(いっしのへん)の後に行われたとされる(この暗殺事件を大化の改新と呼ぶこともある)。天皇の宮(首都)を飛鳥から難波宮(現在の大阪市中央区)に移し、蘇我氏など飛鳥の豪族を中心とした政治から天皇中心の政治への転換点となったとされる。

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また大化は日本最初の元号である。つまり日本という国の起源がこの時代にある。

蘇我氏は蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたり政権を掌握していた。中臣鎌足(のちの藤原鎌足)は、蘇我氏による専横に憤り、大王家(天皇家)へ権力を取り戻すため、まず軽皇子と接触するも、その器ではないとあきらめる。

そこで鎌子は、中大兄皇子に近づく。蹴鞠の会で出会う話は有名。共に南淵請安に学び、蘇我氏打倒の計画を練ることになった。中大兄皇子は、蝦夷・入鹿に批判的な蘇我倉山田石川麻呂(蘇我石川麻呂)の娘と結婚。石川麻呂を味方にし、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田らも引き入れる。

そして、皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺。翌日には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自殺。蘇我体制に終止符を打った。

この蘇我氏本宗家滅亡事件をこの年の干支にちなんで乙巳の変(いっしのへん)という。

新政権の発足
皇極4年(645年)6月14日、乙巳の変の直後、皇極天皇は退位し、中大兄皇子に皇位を譲ろうとしたが、中大兄と鎌足との相談の結果、皇弟・軽皇子が即位し、孝徳天皇となり、中大兄皇子が皇太子になった。これは、推古天皇の時、聖徳太子が皇太子で政治の実権を握っていたことを模したものであると推定されている。新たに左右の大臣2人と内臣(うちのおみ)を置いた。さらに唐の律令制度を実際に運営する知識として国博士を置いた。この政権交替は、蘇我氏に変わって権力を握ることではなく、東アジア情勢の流れに即応できる権力の集中と国政の改革であったと考えられている。

天皇 孝徳天皇、皇太子 中大兄皇子
左大臣 阿部内麻呂臣(あべのうちまろのおみ)、右大臣 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)、内臣 中臣鎌足
国博士 高向玄理(たかむこのくろまろ)、国博士 旻(みん)
6月19日、孝徳天皇と中大兄皇子は群臣を大槻の樹に集めて「帝道は唯一である」「暴逆(蘇我氏)は誅した。これより後は君に二政なし、臣に二朝なし」と神々に誓った。そして、大化元年と初めて元号を定めた。

8月5日、東国に国司(くにのみこともち)を遣わし、新政権の目指す政治改革を行うこととした。これらの国司は臨時官であり、後の国司とは同じではない。それは8組からなっていたが、どの地域に遣わされたかは定かではないが、第3組は毛野方面に、第5組は東海方面に遣わされたと、後の復命の論功行賞から推定できる。新政権は、このような広さを単位区域にして8組の国司を東国に派遣した。

鐘櫃(かねひつ)の制を定める。また、男女の法を定め、良民・奴婢の子の帰属を決める。

9月には、古人大兄皇子を謀反の罪で処刑。皇子は蘇我氏の血を引いていて、入鹿によって次期天皇とされていたが、乙巳の変の後出家し吉野へ逃れていた。

12月に都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮へ遷都。


2009年04月19日

清朝の朝貢政策の転換

1839年、清は琉球、ヴェトナム、シャムに対し、朝貢を4年に1回(4年1貢)に改めるよう命じた。それまで、ヴェトナムは2年1貢(4年に1回の使節派遣)、シャムは3年1貢、琉球は1年1貢だったのに対し、朝貢関係をゆるやかにすることで財政上の負担を減らし、独自の貿易自立策をとろうとするものだった。

その背景には当時急速に拡大する華南の沿海部とアジア域内、あるいはヨーロッパとの貿易があった。清朝は、急増する広州貿易を直接管理し、そこから財貨を獲得しようとはかったが、広東における地域主義、十三行商人が外国商人と直接交易を行っていたこと、また、アヘン貿易に対する厳禁論と弛緩論の対立などから実現にはいたらず、最終的にはアヘン戦争によってヨーロッパ諸国との対応をせまられることとなった。

アヘン戦争
乾隆帝治世晩年の清朝の経済は、農村における過剰労働力を都市が吸収することはできなかった。というのも、都市には農村を養えるだけの資本が蓄積されておらず、産業も育成されていなかったからである。その上、台頭しようとする商業資本には官僚制が重税をかけて潰してしまった。また、農民は納税として銀を用いる以外、日常生活には銭が用いられていたが、秤量貨幣として銀が流通するようになっていくと、銀と銭の間で相場が立つようになり、「銀貴銭賤(銀高く銭賤し)」という状態が発生し、物価騰貴の原因となっていった[3]。乾隆帝の次代の嘉慶帝の時には、農民の不満から白蓮教徒の乱が発生し、清朝の治世は混迷を迎えた。

この頃、イギリスは清朝に対する大幅な貿易赤字を是正するために、1816年ウィリアム・アマースト(en)を派遣したが、かれは三跪九叩頭の礼を拒否したため、あえなく交渉は決裂した。イギリスは原料供給地と化したインドにおいてアヘンを生産し、清朝に対し密貿易を開始した。すなわち、イギリス、インド、清朝の三角貿易である。

アヘン吸引の悪習により農民の身体はむしばまれ、結果として税収は減少して銀がイギリスに流れ出るようになった。事態を憂慮した道光帝は欽差大臣にアヘン厳禁派の林則徐を任命してアヘン密貿易を取り締まらせたため、アヘン貿易を推し進めていたイギリスは清朝の行動に反発した。1839年11月貿易拒否を理由に開戦の火蓋が切って落とされた。その後、イギリス議会は清朝出兵を承認し、清朝に対し軍事攻撃を仕掛けた。グラッドストンは1840年にイギリス議会でアヘン戦争反対の名演説を行ったが、翌年の総選挙で敗北した。かれは、アイルランドの自治をみとめる立場だったが、これも2度法案を提出したが不成立に終わった。最終的には1842年南京条約とその後に締結された虎門寨追加条約で、イギリスは清国に多額な賠償金、治外法権の承認、関税自主権の喪失、片務的最恵国待遇の承認、香港島の割譲、外国貿易を広州の他に厦門、福州、寧波、上海でも行うことを認めさせるといった不平等条約を締結させることに成功した。その後の1844年、アメリカ合衆国とは望厦条約を、フランスとは黄埔条約を締結した。

藩政・幕政改革と日本
詳細は田沼意次、寛政の改革、徳川家斉、天保の改革をそれぞれ参照

イギリス産業革命を主導した世界商品は木綿だったが、16世紀に日本にもたらされたのは中国・朝鮮産の厚手のものだった。夏用として麻を用いていた日本人はそれを冬用に用いた。木綿輸入のための費用は莫大だったため、近世前半に繊維が短く太い綿花を移植し、特に18世紀以降は新井白石の方針もあって国産化が加速した。木綿を輸入していた時期の日本は東アジア3国のなかでも最も遅れていたが、国内の商品経済の高まりによって綿業技術は両国を圧倒するまでに発展したとみられる[4]。ただし、3国はともに海禁・鎖国政策を基本としていたため、この競争関係は表面化しなかった。

幕府財政は享保の改革での年貢増徴策によって年貢収入は増加したが、宝暦年間(1751年-1763年)には頭打ちとなり、再び行き詰まりをみせた。これを打開するため、発展してきた商品生産・流通に新たな財源を見出し、さらに大規模な新田開発と蝦夷地開発を試みたのが田沼意次だった。田沼は、それまでの農業依存体質を改め、重商主義政策を実行に移した。商品生産・流通を掌握し、物価を引き下げるため手工業者の仲間組織を株仲間として公認、奨励して、そこに運上・冥加などを課税した。銅座・朝鮮人参座・真鍮座などの座を設け、専売制を実施した。町人資本による印旛沼・手賀沼の干拓事業、さらに長崎貿易を推奨し、特に俵物など輸出商品の開発を通じて金銀の流出を抑えようとした。また、蘭学を奨励し、工藤平助らの提案によって最上徳内を蝦夷地に派遣し、新田開発や鉱山開発さらにアイヌを通じた対ロシア交易の可能性を調査させた。これらは、当時としてはきわめて先進的な内容をふくむ現実的、合理的な政策だったが、賄賂政治を批判され、天明の大飢饉とも重なって百姓一揆や打ちこわしが激発して失脚した。

続いて田沼政治を批判した松平定信が1787年に登場し、寛政の改革を推進した。田沼時代のインフレを収めるため、質素倹約と風紀取り締まりを進め、超緊縮財政で臨んだ。抑商政策が採られて株仲間は解散を命じられ、大名に囲米を義務づけて、旧里帰農令によって江戸へ流入した百姓を出身地に帰還させた。また棄捐令を発して旗本・御家人らの救済を図るなど、保守的、理想主義的な傾向が強かった。

対外対策では、林子平の蝦夷地対策を発禁処分として処罰し、漂流者大黒屋光太夫を送り届けたロシアのアダム・ラクスマンの通商要求を完全に拒絶するなど、強硬な姿勢で臨んだ。七分積金や人足寄場の設置など、こんにちでいう社会福祉政策を行ってもいるが、思想や文芸を統制し、全体として町人・百姓に厳しく、旗本・御家人を過剰に保護する政策を採り、人心の離反を招いた。また、重商主義政策の放棄により、田沼時代に健全化した財政は再び悪化に転じた。

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定信の辞任後、文化・文政時代から天保年間にかけての約50年間、政治の実権は11代将軍徳川家斉がにぎった。家斉は将軍職を子の家慶にゆずった後も実権をにぎり続けたので、この政治を「大御所政治」とよんでいる。家斉の治世は、はじめ質素倹約の政策がひきつがれたが、貨幣悪鋳による出目の収益で幕府財政が一旦うるおうと、大奥での華美な生活にながれ、幕政は放漫経営に陥った。一方では、商人の経済活動が活発化し、都市を中心に庶民文化(化政文化)が栄えた。しかし、農村では貧富の差が拡大して各地で百姓一揆や村方騒動が頻発し、治安も悪化した。

1832年からはじまった天保の大飢饉は全国に広がり、都市でも農村でも困窮した人びとがあふれ、餓死者も多く現れた。1837年、幕府の無策に憤って大坂町奉行所の元与力大塩平八郎が大坂で武装蜂起した。大塩にしたがった農民も多く、地方にも飛び火して幕府や諸藩に大きな衝撃をあたえた。このような危機に対応すべく、家斉死後の1841年、老中水野忠邦が幕府権力の強化のために天保の改革と呼ばれる財政立て直しのための諸政策を実施したが、いずれも効果はうすく、特に上知令は幕府財政の安定と国防の充実との両方をねらう意欲的な政策だったが、社会各層からの猛反対を浴びて頓挫し、忠邦もわずか3年で失脚した。

忠邦はまた、アヘン戦争における清の敗北により、従来の外国船に対する異国船打払令を改めて薪水給与令を発令して柔軟路線に転換する一方、江川英龍や高島秋帆に西洋流砲術を導入させて、近代軍備を整えさせた。アヘン戦争の衝撃は、日本各地をかけめぐり、魏源の『海国図志』は多数印刷されて幕末の政局に強い影響をあたえた。源了圓は、「『海国図志』の日中韓の読み方の違い」において、のちに洋務派と変法派を生みつつも刊行当時は正しく評価されなかった清国、『海国図志』への反応が鈍かった朝鮮、翻刻本23種(うち和訳本16種)が刊行され、国民一般に公開されて、きわめて関心が高かった日本を比較している[5]。こうしたなか、薩摩藩や長州藩など雄藩とよばれる藩では財政改革に成功し、幕末期の政局で強い発言力をもつ力をたくわえた。

経済面では、地主や問屋商人のなかには工場を設けて分業や協業によって手工業生産をおこなうマニュファクチュアが天保期には現れている。マニュファクチュア生産は、大坂周辺や尾張の綿織物業、桐生・足利・結城など北関東地方の絹織物業などでおこなわれた。

2009年04月04日

朝日嶽鶴之助

朝日嶽 鶴之助(あさひだけ つるのすけ、1840年(1838年説も) - 1882年4月4日)は、山形県鶴岡市出身(生地は新潟県村上市(旧・岩船郡山北町))の大相撲力士。最高位は大関。本名は本間→佐藤庄蔵、本間姓の前の苗字は不明。現役時代の体格は177cm、113kgと伝わる。

来歴 [編集]
越後国の農家に生まれ、漁師に奉公に出された。庄内藩出入りの船人足として働いていたところが藩主の目に止まり、藩主の勧めで同郷の立田川(7代、元関脇常山五良治)に入門した。初土俵は万延元年(1860年)10月場所、幕下二段目に付け出された。最初の四股名は「由良ノ海庄蔵」だが、文久2年(1862年)2月に朝日嶽と改名した。朝日嶽の名は地元の名山大朝日岳に因んだ。まだ幕下の地位にあった慶応3年(1867年)11月場所で大関不知火(11代横綱)を破るなど8勝1分の好成績を挙げ、翌慶応4年(1868年)6月場所で入幕する。明治7年(1874年)3月場所からは3年半7場所の間関脇の座にあり、明治10年(1877年)12月場所大関に昇進、2場所勤めて明治11年(1878年)6月場所を最後に引退した。しかし朝日嶽の名を高めたのは明治維新の動乱期下の行動で見せた主君への報恩だったろう。

朝日嶽を抱えていた庄内藩酒井家は徳川家康以来の譜代筆頭という家柄だった。鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れたことを知った朝日嶽は、挙兵する主君の許へはせ参じようと新入幕の場所を途中休場してしまう。しかし江戸を出ようとも前途は官軍に塞がれて出られない。朝日嶽は江戸橋の荷揚げ業鈴木伊兵衛に志を伝え、感銘を受けた伊兵衛は榎本武揚に使いを出して幕府軍艦へ便乗できるよう手配した。洋服に簑笠を纏った出で立ちで風雨をついて小舟で軍艦に乗り込んだ朝日嶽は無事石巻に着き、官軍の目を逃れて昼は潜み夜に歩いて鶴ヶ岡城にたどり着き、藩主は大いに喜んだ。庄内藩は官軍に大いに抵抗したものの明治元年9月に降伏、朝日嶽も翌明治2年(1869年)4月場所から東京相撲に復帰した。東京に帰参した朝日嶽は大いに喝采を浴びたという。当時の人気力士を謡った俗謡に「相撲じゃ陣幕、顔じゃ綾瀬、程のよいのが朝日嶽」というものがあったが、薩摩藩抱えだった陣幕は官軍につき、綾瀬川は姫路藩から土佐藩へ抱えを移るなどした。史実の通り幕府軍は敗れたのだが、朝日嶽の忠義が徳川びいきの江戸っ子たちの胸を打ったのだろう。

「程のよい」と謡われたが色白の美男だったという。均整の取れた体つきで、高い人気におごらず節操高く力士の品位を高めた。明治11年、巡業で故郷の山形を訪れた際、時の県令三島通庸が五条家に取り計らい、山形限定(のち東北地方限定に)の横綱免許を五条家から受け、土俵入りを披露した。なお吉田司家からの免許は下りていないので、正式な横綱には数えられていない。

引退後は年寄立田川を襲名したが病弱で、引退から4年後の明治15年(1882年)4月4日に没した。

主な成績 [編集]
幕内在位:21場所
幕内成績:82勝40敗37分6預45休 勝率.672

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2009年03月20日

特急列車増発と急行列車群の統合

1968年(昭和43年)10月 のちに「ヨンサントオ」と称されるダイヤ改正に伴い、以下のように変更する。
「ひばり」5往復に増発。うち、1往復は東京駅発着。上野?仙台間を最速3時間53分の運行とする。
列車愛称の統合が行われる。
上野駅?仙台駅間を東北本線経由の急行列車の名称を「まつしま」とし、「みやぎの」の名称は廃止。
ただし、「みやぎの」の名称でこれ以降臨時列車として運行されたことが幾度かある。
上野駅?盛岡駅間を運行する夜行列車の「きたかみ」の名称を「いわて」に統合。
「三陸」の名称を「八甲田(上り・下りとも)1号」に変更。
常磐線経由で上野駅?青森駅間運行の「みちのく」を「十和田(上り・下りとも)1号」に変更。これにより、上野駅?鳴子駅・宮古駅・弘前駅間を運行する「みちのく(下り)1号・(上り)2号」は「みちのく」に名称を変更する。
1969年(昭和44年)3月 「ひばり」季節列車1往復を増発。
1969年(昭和44年)10月 「ひばり」季節列車を定期列車に格上げ、6往復に。
1970年(昭和45年)10月 「ひばり」定期列車7往復となる。また、「みちのく」(上野駅?鳴子駅・宮古駅・弘前駅)・「八甲田(上り・下りとも)1号」を廃止。「八甲田」は夜行列車のみが残る。
1971年(昭和46年)3月 上野駅?盛岡駅間を常磐線経由で運行する急行「もりおか」運行開始。
1972年(昭和47年)3月 「ひばり」定期列車9往復、季節列車2往復となる。また、「もりおか」の臨時列車として、東北本線経由列車の「もりおか」を運行する。
特急「やまびこ」の補助列車の位置づけで上野駅?盛岡駅間を約6時間30分で結んだ。
1972年7月、東北本線経由の臨時「もりおか」の名称を「エコーもりおか」と改称する。
1972年10月 急行「エコーもりおか」、特急「やまびこ」に昇格する。また、「ひばり」定期列車11往復となり、自由席設置の上エル特急に指定。
1973年(昭和48年)10月 「ひばり」定期列車13往復となる。下り4号、上り10号が間合い運用による583系で運行される。
1975年(昭和50年)3月 「北星」は特急に格上げされる。
1978年(昭和53年)10月 「ゴーサントオ」と称されるダイヤ改正に伴い、「ひばり」15往復に増発。上野駅?宇都宮駅間の規格ダイヤ修正により、上野駅?仙台駅間4時間15分にスピードダウン。583系の間合い運用はなくなり、全列車485系による12両編成に統一された。
また、ほぼ同時期に特急列車の愛称幕・ヘッドマークにイラストが入るようになった。その意匠は以下の通り。
「ひばり」…ヘッドマークの上に向かって空を飛ぶヒバリと仙台七夕が掛かる意匠に列車名の記載。
「やまびこ」…自然現象である山彦がモチーフであるため、ヘッドマークでは音の伝わりを表現する縦長の楕円を組み合わせた文様の上に列車名の記載。
「北星」…元々、夜行列車の名称として「天体名」が使用された関係で、イメージは北海に輝く北極星と列車名を組み合わせた。
1980年(昭和55年)10月 「ひばり」1往復廃止、14往復になる。
ちなみに、「ひばり」の当時の停車駅は以下のとおり。括弧内は一部停車。
上野駅 - (大宮駅) - 宇都宮駅 - (西那須野駅) - (黒磯駅) - (白河駅) - (須賀川駅) - 郡山駅 - (本宮駅) - (二本松駅) - 福島駅 - (白石駅) - (岩沼駅) - 仙台駅
また、同時期の「まつしま」停車駅は以下のとおりだった。括弧内は一部停車。
上野駅 - 赤羽駅 - 大宮駅 -(古河駅) - 小山駅 - 宇都宮駅 - (氏家駅) - (矢板駅) - 西那須野駅 - 黒磯駅 - (黒田原駅) - 白河駅 - (矢吹駅) - 須賀川駅 - 郡山駅 - 本宮駅 - 二本松駅 - 福島駅 - 白石駅 - (大河原駅) - (船岡駅) - (岩沼駅) - 仙台駅

東北新幹線開業と並行在来優等列車群 [編集]
1982年(昭和57年)6月 東北新幹線大宮駅?盛岡駅間暫定開業に伴い、在来線特急列車は新幹線列車へ建て替えられ、以下のようになる。
「やまびこ」…4往復すべて新幹線列車に振り返られ、在来線特急列車としては廃止。
「ひばり」…6往復が「あおば」に振り替えの形で一部削減される。
1982年11月 東北新幹線本格開業に伴うダイヤ改正により以下の通りとなる。
急行「いわて」・「もりおか」、寝台特急「北星」廃止。
「ひばり」定期列車としては廃止。臨時列車の「ひばり51・52号」が新幹線上野開業まで不定期で運転された。
シンジケ ビシー リング 毬つき パイラ ハート ピーフォ プロフ たらのき ドロー サバラン かっぽう レッドベ カード シップ バーディ デシジョン たらのき キャスク レザー ギブアン デコーダ トップ パパイヤ バイオレ オロジー テルミン テンレポ カクタス モスク もくず ミシンポ ワンコイン フォルシェ ブルガリア トロント ルーメン タウン オーソス シライド おにしま レーサコテ ファイン パワー バカロ ショーツ メニュー ヤングリ マイカー ふとう

寝台急行「新星」廃止。
座席急行列車であった「まつしま」は東北新幹線が大宮駅発着であったこと、支線区へ直通する「ざおう」・「ばんだい」と併結して走る関係から上野直通列車として5往復が存置され、「あづま」も夜行1往復の廃止に止まった。
1984年(昭和59年)2月「まつしま」は一部列車で急行運転区間を上野駅?福島駅間とした。また、併結列車であった「ばんだい」の快速格下げ、上野直通廃止に伴い編成も短縮された。
1985年(昭和60年)3月 東北・上越新幹線上野駅乗り入れに伴うダイヤ改正により「まつしま」と「あづま」は廃止。これにより、「ゆうづる」・「はくつる」・「八甲田」と一部の臨時列車、奥羽本線・磐越西線への直通列車を除き上野駅発着で黒磯駅以北に直通する東北本線昼行列車・夜行列車は全廃された。

2009年03月05日

玉龍(ぎょくりゅう、Yu long)

玉龍(ぎょくりゅう、Yu long)は西海竜王敖閨の第三太子。小説『西遊記』の主要登場人物の一人。

かつて天界において父・敖閨が大切にしていた宝玉を、火事を起こして焼いてしまい(訳者によっては、婚約者が浮気をして他の妖魔と結婚したあげく、その妖魔と共謀して自分を殺そうとしていたことを知ったため、八つ当たりにやってしまったというエピソードがある。)、その罰として死罪を言い渡された。その後観世音菩薩の竜王へのとりなしもあって蛇盤山の鷹愁澗に住み、三蔵法師の馬となるべく、五百年間三蔵が来るのを待ち続けていた。しかし、肝心の三蔵が来た時にはそうとは気付かず、三蔵が乗っていた白馬を呑んでしまった。彼の正体を知っているのは孫悟空だけであり、彼は元々天界で弼馬温をしていたため馬の扱いには慣れていた(弼馬温と同音(ピーマーウェン)の避馬瘟という猿は馬を病から護るという信仰に由来)悟空には大事にしてもらっている。元来龍であるためその尿を悟空が薬の材料にしたことも。
ユーロ ドラゴン セカンド ナビラッコ バリヤ サーチ天延 セスカーナ ユッカ 京いも パレス レオタガ オマーン フライト リポジ ピンク チャコール サドルシ ライト じゃじゃん シキミ エッジ カチュ クロロ 学園天国 ソワレ ダイレーザ ハンサム シート ニアピン ロハス ラナン ソコン かすかわ 星のフラ シューズ フーズ トレーサー ターピース ルカラー 天羽 シャープ パオトウ くずまき マミー スウェ フォトカ そけい メトニミ フランス スリーエム

玉龍は物語の中であまり活躍することはなく、エピソードもそれほど巷に流布していない。原作群においても描写は少ないので彼の様子を把握するのは難しい。翻案であればただの馬として無視されることもあれば、美青年の姿をしているが、自分の与えられた役目しか果たさない、少し怠惰な性格をしているなど、さまざまである。

玉龍(元の名前)
白竜(中国ではこの呼び名が一般的とされている。)
小龍(別名)
八部天龍(釈迦如来の任命)
白龍馬(民間でよく言われる名前)
原作群において玉龍は専ら経典を運ぶ三蔵の馬としてしか登場せず、孫悟空、沙悟浄、猪八戒のように妖仙と戦う場面は殆ど無い。しかし碗子山波月洞に住む天界の星辰・奎木狼であった黄袍との戦いにおいて一度だけ、三人が危機に陥った時に敵と戦った。

この時三蔵は囚われの身、悟空は破門、八戒、悟浄とは連絡も取れず、一行は窮地に追い込まれていた。そこで玉龍は己が黄袍と戦うことを決意し、厩の手綱を切って竜の姿に戻ると、妖艶な美女に変身して言葉巧みに黄袍に取り入り、隙を突いて妖怪が持っていた剣で刺し殺そうとする。しかし結局負けてしまい、足に怪我まで負ってしまった。

しかし玉龍が活躍する数少ない名場面である為、西遊記の見所の一つでもある。

泉州開元寺の仁壽塔(西塔、嘉元年1237年完成)浮彫には梁武帝、「唐三藏」、剣を持った東海火龍太子(馬とつながっている)、猴行者の4種あり、西遊記の玉龍となる前の姿がかいまみえる。

2009年02月14日

蒼天のセレナリア

蒸気機械が高度に発達した文明が支配する「既知世界」と、「世界の水殻」という壁を隔てて存在する「未知世界」を舞台にした、スチームパンク冒険活劇。
むろら バイラ プラズマ スプロー ディスト ラリー シリンダー ペツォ メイドカ 検索いふ スワン マンサク アーモンド オーバー カミソール セルフレ ワイウク 氷の世界 リット ジャムパン マンナ ロファ ターニュ トウチク ゴデチア ぽっぽ 幸せ ハードカレ キューム パイソオ セクレ リファンド お猿岩 鳳仙花 スタート マテハン めんか キャンベラ タメ口 ブリーフス シオン 最新検索 アフレコ モダンジ ストマイ ライン フローベ ウィザード ちとう ディエフ

全8章からなり、基本的にはADVパートと、SLGパートを交互に繰り返して進めていく。SLGパートはマップ上の駒を進めて目的地までたどり着かせ、物語を進行させる。立ち寄った街で、人々からの依頼をこなして路銀を稼ぐこともできるが、物語の進行にはまったく関係無く、稼いだ金はおまけ要素に必要な「思い出」を購入するためだけのものであるため、無視して目的地にたどり着くだけでも物語りは進行する。

地名等にクトゥルフ神話から取られているものがある。

既知大陸の辺境都市で、小型飛空挺を駆りなんでも屋を営むコニーとシェラ。ある日、ヤーロという少女を助けたことによって、既知大陸の半分を支配する軍事国家「帝国」に目をつけられてしまう。帝国はヤーロの持つ「緑色秘本」なるものを狙っていた。突如現れた青年カルベルティによって彼女らは助け出され、そのまま小型飛空挺「ウルメンシュ」に乗り帝国の追撃を逃れ、さらには「既知世界」と「未知世界」を隔絶する「世界の水殻」までも突破に成功してしまう。

しかし、その直後、ヤーロは「緑色秘本」を残して去ってしまう。コニーとシェラは再びヤーロに会うため、なにもかもが初めての未知世界を駆け巡る。

そして同時に、帝国もある思惑によって動き出していた。

コニー・イル・リクール
声 - 野月まひる
小型飛空挺「ウルメンシュ」を駆る赤い髪をした少女。シェラと共になんでも屋を営んでいる。危機を救ってくれたカルベルティに惹かれていく。後に結ばれるが、あまり関係は進展していない。
シェラ・マキス
声 - 金田まひる
コニーのパートナー。混血率の濃いプセール。コニーを姉のように慕っている。幼い見た目とは裏腹に、性に奔放。プセールという出自のため、誰からも愛されない思っている。本名はシェーラ・ロム。特別な力を持つシュプララプセールの王の血を受け継いでいるため、ディユ・メシャンの演算装置として取り込まれてしまう。
マウマウ
声 - 金田まひる
なにかの動物。「まうまう」としか言えない。子供程度の知能はある。
カルベルティ
超小型飛空「イクトゥス」を駆る青年。北方の貴族だったが、バイロンに家族を皆殺しにされたため、復讐のために生きることとなる。その後、蒸気王やムムリクの死を経て、誰かのために剣を振るうことを決意する。
ヤーロ・マク・ラド
声 - 西田こむぎ
樹木種の少女。コニー達が彼女を助けたことによって物語りは動き出す。
レヴィ・アクィナス
ラス・カサスの孫。シェラのことが好きで、帝国の要塞にもぐりこんで彼女を追いかけてくる。父は蒸気機関を破壊しようとした犯罪者だった。

既知世界
ラス・カサス
辺境で整備工場を営んでいる。ウルメンシュをコニーらに与えた。相当名の知れた人物で、蒸気王やエイダとも知り合いで、マタイオスも彼を尊敬している。
デ・マクシム
強い影響力を持つ貴族勢力の当主。汚染された空気を長年吸ってきたため「蒸気病」を患い、マスクなしでは生きられない。力をつけている急進派貴族を一掃するため、未知世界を支配して勢力を得ようとする。しかし物語終盤、バイロンによって殺害される。
ゼーズロム・ユエル
声 - 歌織
帝国辺境軍特務大尉。男装をした女性で、右目の義眼が特徴。プセールに異常なまでの憎悪を抱き、シェラに会うたびに躍起になって殺そうとする。
実は混血率20%のプセールで、本名はジェライラ・ロム。帝国ではプセールを忌み嫌う風潮があるため、自分を嫌い、金色の目が顕現した右目を抉り、毛が生えた手足を焼いた。もっとも、バイロンには全てばれており、プセールの血統を利用され、ディユ・メシャンの中枢として取り込まれた。救い出された後は、ラス・カサスの下で静かに生活している。
マタイオス・ノン=デュ
帝国軍第3飛空艦隊提督。他の貴族と違い高圧的ではなく、優雅な印象を与える帝国貴族。理想主義者を嫌っていると嘯くが、彼自身も理想主義者。終盤、暴走を始めたバイロンを討つためコニーらに協力する。
ネーエル・サザン
声 - かわしまりの
マタイオスの部下。彼を慕っている。皇帝家の分家であるサザン家の人間。カルベルティとも面識がある。
ドゥーガ・ル・ビィ・アダム
誰にでも「ルビー少佐」と呼ばせる。全身にルビーをあしらった姿が特徴的。狂人であり、未知世界に進行した際も、現地の人々を奴隷として扱っている。同じく彼の部下の多くは狂っている。マタイオスによると、以前は良識のある立派な軍人だったらしいが、ベヴェルの戦いの後で変わってしまったらしい。機動要塞ムルトルでウルメンシュを落そうとするが、逆に火山の火口に叩き落されて死亡。…したかに見えたが、ちゃっかり生きていた。メソムの子供に助けられて改心したらしい。
レイディ・エイダ
声 - 金田まひる
本名はエイダ・オーガスタ・バイロン。バイロンの娘。楽しいという理由で、ミュトを救う手助けをする。特別製の演算装置の篭手を付けている。様々な発明を行い、帝国の発展に貢献した天才。バイロンの命令によって未知世界の各地を制圧、したかに思えたが、実はバイロンを倒すために各地の人に協力を仰いでいた。夫と別れて欲求不満。
C=G・バイロン
帝都を支配する十碩学の主。急進派貴族盟主で、デ・マクシムを手にかけた。狡猾かつ残虐で、かつてカルベルティの家族を皆殺しにした。人の心と行動すべてを数式と捕らえており、大数式なるものに組み込もうと考える。
ディユ・メシャンを使い、世界征服を企むが、コニー達によって阻止された。

未知世界
蒸気王
巨大な機関鎧。”鉄の王”とも呼ばれる。
未知世界におけるあらゆる鉄の船を己の罪、悪として断罪する。そのため問答無用でウルメンシュにも襲い掛かってくるが、後に和解。
驚異的なまでの機動力を誇り、両腕に機動要塞並の威力を持つ圧縮蒸気砲を装備している。
かつて既知世界に蒸気機関をもたらし、帝国を築き上げた人物と同じ名前を持っている。本人は同一人物ではないという。物語中盤、カルベルティを庇って破壊される。
その正体は”蒸気王”チャールズ・バベッジその人。既知世界に蒸気機関をもたらしたことを後悔し、機関鎧に記憶を移植し、死してなお動き続ける。物語終盤、形を伴って再び現れ、バイロンをあの世に連れて行った。
ルダ
コニー達が未知世界で最初にで会ったパルデスの”人”。周辺の島々の長。コニーたちに色々と教えてくれる。
ニェルレイ
声 - 金田まひる
アシャムの”人”。空を飛ぶウルメンシュを獲物と勘違いして攻撃してくる。「鍵」と呼ばれる槍を持っている。三盗賊の一人のオルゴにレイプされる。
3盗賊
セイレンのフリィ、シェロブのオルゴ、ミシューフシのオドの三人組。他の”人”と違い"盟約"を放棄した人たち。銀を稼ぐため非道も行う。
たびたびコニーたちの前に現れるが、その時々で立場はさまざま。
パルポ
フォルネの”人”。コニー達に海底にある街を「動く島」から助けてほしいと頼みに来る。鉄の鳥(ウルメンシュ)に乗っているから”鉄の王”様(蒸気王)の居場所を知っていると思っていた。
ソム=メソム
森林都市に住むメソムの人。わずかながらヤーロの手がかりをコニーたちに与える。エンディングでは、ニェルレイから積極的なアプローチを受ける。
逆さ城の女王
シェロブの女王種。逆さ城に住んでいる。普段は物腰柔らかだが、無礼な者には容赦しない。

シェロブの王。巨大な蟷螂のような姿をしている。咆哮だけで防弾ガラスが割れる。一応知能はある。
ミュト
シュプララプセールの男の子。レヴィに一方的に恋敵にされる。
ミンツチ
フォルネに似た姿を持つ。水の都セラニアンにある屋敷に幽閉されている。"ふるきもの"である水の王ラプシヌプルクルの娘。
ムムリク
黒迷奇城の近くで出会う、マティスムの”人”。特大の刃と一体化した手甲を右腕に装備している。かつて「狂える竜の王子」と呼ばれるドラゴンに家族を皆殺しにされた過去を持ち、長い間追い続けて来た。その間に、外見も中身もずいぶん変わったらしく、すでに寝る必要のない身体となっている。最期はドラゴンと相打ちになり、雷の直撃を受けて双方とも完全に消滅した。彼の死は、同じ境遇のカルベルティに大きく影響を与えた。
エリール=エリル・ロム
シュプララプセールの女王種。シェラを姫として迎え入れる。
テュケー
シュプララプセールの騎士。ゼーズロムに扇動されて反乱を起こしてしまう。

その他
ファスティトカロン
島と見まごうほど巨大な亀。常にじっとしているが、稀に動き出す。進行方向にパルポの住む街があり、危うく潰されるところだったが、コニーや蒸気王によって進行方向を変えられた。
ラプシヌプルクル
ミンツチの父、すでに形を失っている。偉大なる湖の王や水の竜王とも呼ばれる大水蛇。ミンツチを助けたコニーたちを救うため、最後の力を振り絞りって実体化した。
狂える竜の王子 
ムムリクの復讐の相手。漆黒のドラゴン。「永久低気圧の王」とも呼ばれる。本来は世界の水殻を作り出す存在で何体もいるらしいが、数百年単位で稀に暴走を始めるものがいるらしい。

飛空挺・要塞
ウルメンシュ
コニー達の乗る高速小型飛空挺。基本は物資の運搬等を目的としているので、重火器等の装備は無いが、船を固定するためのアンカーチェーンを武器として使用することもある。
特殊金属製の突撃衝角を船首に装備している。圧縮噴射機構による高速機動が特徴。
イクトゥス
一人乗りの超小型飛空挺。ウルメンシュと同じく圧縮噴射機構を持ち、羽ばたくことによって飛ぶ。機銃のほか、圧縮蒸気砲も装備している。
アンヴォロンテール
ゼーズロムの指揮するトゥルナルシ級機動要塞。
ムルトル
ルビー少佐の指揮するトゥルナルシ級機動要塞。赤い装飾が施されている。
デザストール
マタイオスの指揮するイザムバード級基幹型要塞。三番艦。
クセルクセス
エイダの指揮するイザムバード級基幹型要塞。八番艦。バイロン式改造が施された攻撃用最新機
皇帝騎
巨大碩学機械ディユ・メシャン。下半身のない異形の姿で、胴体部の長さだけで10マイル超。手のひらで都市が覆われるほど、常識を超えたサイズを誇る。雷が体表を覆い、あらゆる攻撃を防ぐ。
バイロンの手によって作られ、黒迷奇城に封印されていたヒュブリスと接続され、起動するが、最後はコニーたちの手によって機能を停止させられた。

2009年01月27日

リパブリック F-105 サンダーチ

F-105 サンダーチーフ (F-105 Thunderchief) はアメリカのリパブリック社が開発した軍用機。単座単発(F/G型は複座)の戦闘爆撃機で、同社のF-84の後継機である。初の機内に爆弾倉を有する戦闘爆撃機であり、その爆撃能力は軽爆撃機というジャンルを不要にし「FとBを付け間違えた」とさえいわれた。しかし、決して戦闘機としての本質を失った訳ではなく、ベトナム戦争では主に爆撃を行いながらも、北ベトナム軍機を 27.5機撃墜している。今でいうマルチロール機の先駆けであるとも言える。愛称は「サッド」(Thud)。
ライバ デッサン シーソーゲ ニーメイ ピーツ ハンチョウ リチャー ムース ディー ガイドモフ サプライズ トドマ シャベル バスレーン ローラー きざらし ヤコブ 風雷坊 コムサ プラトン シッダー ワンマ ガスマス ユーコ タウン憂山 フィナス フラワー 月のうさぎ ボリー フィア プロジェク シャム プレー ロブノー フレア シャフト モニカ シエラ キチン リング ビーエス ローシルク リーク スペード イマン バスガド サーチ予言 フラスコ スカルプ ジョイント

リパブリック社は1951年に、自社資金でアメリカ空軍向け次世代戦闘爆撃機の開発に乗り出し、社内に「アドバンスド・プロジェクト63」を立ち上げた。設計主任にはP-47 サンダーボルト戦闘機の設計者であるアレキサンダー・カートベリが任命され、P-47の基本的概念を踏襲したAP63をまとめあげ、1952年3月に国防総省に提案した。提出された設計案は慎重に検討された結果、9月には正式な開発契約とF-105の制式名称で、199機を生産し、1955年からの配備開始という取り決めも交わされた。AP63設計案は、RF-84Fのデザインを拡大・発展させたもので、侵攻時の高速性能を確保するために当時はまだ大型だった核爆弾を機内収容する爆弾倉を持つ、大型機となる計画だった。

1953年3月には発注機数がXF-105先行量産機37機とRF-105偵察機9機に削減され、10月のリパブリック社工場でのモックアップ審査では、搭載予定で開発中のアリソン製J71ターボジェット・エンジンに十分な信頼がおけないとして、アメリカ空軍は暫定的にP&W製J57-P-25エンジンの搭載を要求。これによりJ71の搭載構想は立ち消えとなり、試作機2機にはJ57が搭載され、量産機ではこれをさらに発展させたJ75エンジンが搭載されることとなった。一方、リパブリック社では、F-84Fの開発と量産遅延に忙殺されており、その影響でF-105の開発にも遅延が生じるようになっていたため、1953年末にアメリカ空軍と再調整を行い、1954年2月になって新たにF-105A 2機とF-105B 10機、RF-105 3機の計15機の試作機が発注された。

試作機YF-105A初号機は1955年10月22日にエドワーズ空軍基地で初飛行し、エリアルールなどの新技術を取り入れていないにも関わらずマッハ1.02を記録した。ただ、YF-105A初号機は同年12月16日の試験飛行中に降着装置の故障で胴体着陸し、修理のためリパブリック社の工場へ戻されたが、1956年1月28日にYF-105A 2号機が初飛行し、試験飛行は継続された。F-105の開発遅延は1956年になっても改善される兆しを見せないものの、同年5月26日にはP&W製J75-P-3エンジンを搭載し、エリアルールを適用した胴体と楔形のエアインテイクを備えたYF-105B初号機が初飛行し、マッハ2の高速に達したが、降着装置の故障で胴体着陸を余儀なくされ、またしても開発遅延の原因となってしまった。なお、同年6月になってアメリカ空軍はF-105へ、リパブリック社から提案のあった「サンダーチーフ」の愛称を承認。1957年度予算にはF-105B 65機、RF-105B 17機分の総額1000万ドルを盛り込んでいる。

こうした状況下、同年9月10日にノースアメリカン社が開発していたYF-107A ウルトラセイバーが初飛行し、F-105との比較審査が行われたが元から保険的意味合いしかなかったYF-107Aが採用されることはなく、1957年1月にリパブリック社へ対してF-105の正式な発注が行われた。また、アメリカ空軍では同年11月22日に情勢の変化に対応するため再検討を実施し、AN/APN-105全天候ドップラー航法システムの搭載、コクピット計器パネルの改良、Mk.43核爆弾運用能力付与などの追加が指示された。

初期量産型のF-105Bは1958年5月27日から戦術航空軍団に引き渡しが開始され、8月に第4戦術戦闘航空団第335戦術戦闘飛行隊が最初に受領した。F-105Bは技術的トラブルが比較的少なかったが、アビオニクス関連のトラブルが非常に多く、アメリカ空軍テスト機関やリパブリック社などがその解決に全力を挙げねばならなかった。アメリカ空軍では65機のF-105Bと17機のRF-105の調達を決定していたものの、後にRF-105があまりに高価となったためキャンセルされ、結局、F-105Bは1959年までに65機が生産されたのみで、その後生産はF-105Dに移行した。

F-105D初号機は1959年6月9日にリパブリック社のファーミングデイル工場で初飛行している。アメリカ空軍は当初1400機のF-105Dを14個航空団に配備する計画だったが、アメリカ海軍のF-4 ファントムIIとの機種統一の見地から調達機数は610機に削減され、残りの予算は空軍型のF-4C/Dの購入に回された。F-105Dは、エンジンをP&W製J75-P-19Wに換装し、AN/ASG-19サンダースティック火器管制装置、NASARR R-14A多目的モノパルス・レーダー・システムとドップラー・レーダーを搭載した全天候型戦闘爆撃機で、1960年5月から第4戦術戦闘航空団への引渡しが開始され、1961年3月からはネリス空軍基地で編成された第4520戦闘乗員訓練航空団での乗員養成が開始された。間もなく海外展開部隊への配備も進められ、最初に受領したのは西ドイツのビットブルグ空軍基地に展開する第36戦術戦闘航空団で、1962年にはシュパンダーレム空軍基地の第49戦術戦闘航空団、同年10月に嘉手納基地の第18戦術戦闘航空団、1963年5月に板付基地の第8戦術戦闘航空団がそれぞれF-100D/F スーパーセイバーから機種転換している。F-105は高性能な単座機だったため、当初からパイロット訓練用に複座型の開発が必要視されていた。このためF-105CやF-105Eなどの複座モデルが計画されたが開発経費の高騰などで実現せず、結局、F-105Dを複座化したF-105Fが開発された。F-105F初号機は1963年6月11日に初飛行し、1964年末までに143機が生産された。

実戦投入
ベトナム戦争の最初の4年間において、北ベトナムに対する爆撃攻撃の75%はF-105によるものだった。ただし本機を特徴づける機内の爆弾倉は通常爆弾の運用には適さず、爆装は外装で行われ、爆弾倉は燃料タンクの収納スペースとして用いられた。

北爆当初北ベトナム空軍のMiG-17に撃墜されるという事件が起こり、「やはり戦闘機失格」という評判を産み、マッハ1級戦闘機であるF-100に、マッハ2級機である本機が護衛されるという屈辱的扱いを受けた。

マーチ空軍博物館に展示されている、F-105Dだが結局F-100のほうは一度もMiG撃墜の戦果を残せなかったのに対し、本機は果敢にMiG-17に挑んで撃墜記録を残し、戦闘機失格の汚名を返上している。ただし対戦闘機戦闘を行う際は爆弾を途中投棄せざるを得ず、結果として北ベトナム空軍は爆撃阻止に成功した事になる。核攻撃能力に傾倒する一方で制空戦闘機を持たず、本機のような戦闘爆撃機のみ重視したため、ベトナム戦争の様な戦闘での対応に苦しんだ事を考えると、アメリカ空軍の判断ミスは大きかったと言える。

主力型として生産されたD型からは、航法、火器管制、爆撃管制の各装置を連動させた統合自動システムを搭載し、出撃から帰還まで自動的に作戦を遂行出来る様になった。ただし、回避機動などを行えないため使用頻度は少なかった。何機かのF-105は、レーダー妨害装置を備えた ワイルド・ウィーゼル機として敵の地対空ミサイルを破壊する任務に使われた。このベトナム戦争において、北爆の主力として使用されたD/F型総生産数751機の内、385機が戦闘や作戦中のトラブルで失われ、51機が戦闘以外の運用上のトラブルで失われている。

ベトナム戦争終結後は、空軍州兵(ANG)等の後方任務に回され、1983年5月25日にジョージア州航空隊の第128戦術戦闘飛行隊が行ったフライトを最後に全てのミッションを終えて退役した。また、1964年に米空軍のアクロバットチーム、サンダーバーズの使用機として採用されたが、同年5月に事故を起こした事とその直後に発生した別の部隊での墜落事故の二つが理由の一時的な飛行停止処置により、早々に使用中止となってしまった。一方、ワイルド・ウィーゼル機のF-105Gは、その後も長く正規空軍で第一線機として用いられ、1980年代より徐々に後継機であるF-4Gと交代した。

派生型
YF-105A:試作機。2機製造。
YF-105B:試作機。エリアルールの採用など。4機製造。
F-105B:初期生産型75機製造。
RF-105B:偵察型。17機発注も計画中止により、JF-105Bに改装。
JF-105B:RF-105Bから改造された試験用機。地対空ミサイルの試験に使用。3機改装。
F-105C:複座練習機型。1957年に計画中止。
F-105D:全天候能力を強化。610機製造。
F-105E:D型の複座練習機型。1959年計画中止。
F-105F:D型の複座練習機型。143機製造。
EF-105F:敵防空網制圧任務(ワイルドウィーゼル)機。F型より86機改装。
F-105G:敵防空網制圧任務(ワイルドウィーゼル)機。F型、EF-105F型より61機改装。

仕様
F-105Bに搭載された、P&W J75のエンジンノズル部 着陸の際などには、ノズル部分が展開して、エアブレーキの役割を果たす。出典: 『世界の傑作機 No.4 リパブリックF-105サンダーチーフ』(文林堂、1987年),en:F-105 Thunderchief

諸元
乗員: 1
全長: 19.63 m (64 ft 4.75 in)
全高: 5.99 m (19 ft 8 in)
翼幅: 10.65 m (34 ft 11.25 in)
翼面積: 35.76 m2 (385 ft2)
空虚重量: 12,474 kg (27,500 lb)
運用時重量: 16,165 kg (35,637 lb)
有効搭載量: 6,700 kg (14,000 lb)
最大離陸重量: 23,834 kg) (52,546 lb)
動力: P&W J75-P-19W アフターバーナー付ターボジェット, (26,500 lbf) × 1
性能
最大速度: 2,208 km/h (1,192 kt) (高度11,000 m(36,000 ft)時)
戦闘行動半径: 1,259 km (680 nm)
フェリー飛行時航続距離: 3,553 km (1,918 nm)
実用上昇限度: 14,783 m (48,500 ft)
上昇率: 195 m/s (38,500 ft/min)
翼面荷重: 452 kg/m2 (93 lb/ft2)
推力重量比: 0.74
武装
固定武装: M61 バルカン 20 mm ガトリング砲 × 1 ,(装弾数1028発)
爆弾: 爆弾倉に1発の核爆弾。5基のパイロンに14,000 lb (6,700 kg)の通常爆弾又は3発の核爆弾搭載可能
ミサイル:
AIM-9 サイドワインダー 空対空ミサイル
AGM-12 ブルパップ 空対地ミサイル
AGM-45 シェライク 対レーダーミサイル
AGM-78 スタンダードARM 対レーダーミサイルなど
アビオニクス
NASARR R-14A radar レーダー
AN/ASG-19 Thunderstick レーダー,FCS
AN/ARN-85 LORAN (AN/ARN-92 in Thunderstick II-modified aircraft)